自らを癒す言葉、克服への足跡
悲しむ者に、悲しんでばかりいても何も始まらない。心のうちを話してみろ、という人がいる。こんなとき、私たちの魂はこう叫んでいるのではないか。
もし、私があなたに悲しみの理由を語れば、あなたはそれを理解してくれるのか。
どうしてこんなに悲しいのか、自分でもわからないのに、話せば分かると本気で言っているのか。だが、そう感じることができたとき、人は悲しみを語ってもよいのかもしれない。分かってもらえないということが分かりさえすれば、人は対話をはじめることができる。
人がもし、悲しみを語るのを止めたなら、世界は一層暗くなるだろう。闇を照らし出す強靭な光はつねに、悲しみの奥から放たれるからだ。さらにいえば人は、悲しみを語るなかで自らの傷を癒す言葉を、自らの口から語り出すのではないだろうか。
若松英輔『生きていくうえで、かけがえのないこと』-「祈る」
悲しみにとらわれて身動きがとれない。そんな時期がある。
突然身体を支配する病、大切な人の喪失。きっかけはいつも悲しみをともなう「痛み」の経験で、それは続けざまに、次々と襲いかかってくることもある。
ある水準を超えた厳しい「痛み」は、何度経験しても慣れることはできないのだろう。ときに、目の前の世界が暗い闇に覆われ、倒れ込んでしまう。
その瞬間はとにかく痛くて、身も心も動かなくなる。
それでも、心のどこか奥深いところで少しづつ、何かが変わっていって、その変容に気づいて、立ち上がろうともがいて、またそろそろと歩きだす。私たちはいつも、この ”複雑な流れ作業” を繰り返している。そして今回も例外なく私は、その流れの中にいる。
私はまだ、すべてを克服できていない。現状を受け入れ、傷跡を見つめ、「生きること」について改めて考えざるをえなかった。いまの私の脳は、細やかな記憶を長く残してはくれない状態にある。いつものように、表現しがたい心情をとにかく、書きだしつづける時期が続いた。
いつからか、溜まった雑文たちを眺めていると、これらをいちどまとめなくては、と思えるようになった。吐き出された感情たちがまとめられれば、意味をもったなにかを、そこからひとつぐらいは、汲み上げることができるかもしれない。
やがて、私はこれからこのように生きていきたいのだという、意志のようなものがまとまった。曖昧で不安定ながらも、私にとっては今後生きていくうえで、かけがえのない指針になってくれたのだった。
そう思えるようになったいま、自らの傷を癒す言葉をのこしておこうと思う。
傷跡の様子は、自らの視点で見つめねばならない
私はいま、死を眼前に迎えているわけではない。世の中には、死と隣り合わせのなかで歩き続けている人さえいる。世界を広く見渡し、あるいは歴史を深くたどれば、その「生きざま」や、遺したコトバから学べることも多い。
それでも、闇の中に倒れ込もうとしている ”そのとき” に見渡せば、他者との「比較」が始まるのだ。例えば、身の周りにいる人間との比較。自分がたった今おかれている現状と比べはじめる。このとても狭い世界での比較は概して、皮肉に満ちた感情を生み出す。
『なぜあんな人間が生き続けられて、あのひとが逝ってしまうのか』
感情はいちど、「自身への哀れみ」や「他者への押しつけがましい怒り」に染まり切る。激しい痛みを抱えた瞬間、そのコントロールはとても難しい。
もっと顔を上げ、視野を広く世界に向けろと言う人もいる。
たしかに注意の対象を変えることは有効で、世界や歴史から学べるものははかりしれない。ただしその行為は、よりじっくりと、他者と比較する行為ともいえる。
自身の現状と比べ、やはり苦しむ。どうだ、この世界には、お前よりも大きな痛みを抱える人間が存在するのだ、こんなことで悲しんではいられないのだと、世界から無言で恐喝される。
同時に、やはりマイノリティーであるという動かしがたい事実も、よりはっきりと自覚することになる。身に起こった現状をくまなく実感し、助けを求めることにも負い目を感じ、ついには闇の中に倒れ込んでしまうのだ。
痛みの経験は、価値あるものとして残りうる
私たちはときにこうして、共感を求める欲望を押し殺して生きている。まるでそれが義務であるかのように振る舞っている。
行き場のない、深い悲しみの感情を独りで処理していく時間は地獄だ。
だからもしその様子を語りたいのであれば、その衝動を押し殺してはいけない。傷跡を癒すことなく、抱えていくことになってしまう。
これを繰り返していると、どの傷を隠したのか、どんな痛みかただったのかさえ忘れていく。辛い悲しみの経験は、”ただそこに在るだけの傷” として残ってしまう。
癒されることのなかった傷が増えるにつれ、無意識のうちに、自信だけが失われていくように思う。最悪の場合、自身の存在価値を疑いだす。
世界や歴史はあくまで教材であり、個人の心情世界やこれまで生きてきた歴史は、本人以外には把握しえない。つまり同じ「痛み」はこの世に存在しない。
だから、誰になんと言われようと、傷跡の様子は自らの視点で、価値観で、見つめなければならない。傷跡を誰よりも精確に見つめられるのは、いまの自分自身にほかならない。
傷跡と向き合い、その痛みと悲しみを語り、自らを癒すよう試みる。語られた言葉は、他者に響く可能性をも秘めている。痛みの経験は、価値あるものとして残りうるのだ。
「悲しみの大きさ」は他者と比較できない
人はそれぞれの世界の中で必死に生きている。
だから、価値観という ”物差し” の尺度はそれぞれ違う。
ひとりの心の内で、いま抱えている「悲しみの大きさ」を測り、過去に経験したものと比べることはできる。しかし他者の悲しみの大きさと比較できるような、絶対的な物差しは存在しない。
まったく同じ人生を送ってきた人間は誰もいない。だからこそ、同じ時間、同じ場所で、同じ体験を共有した者どうしでさえ、負う傷の深さは異なるのだろう。「悲しみの大きさ」は他者と比較することはできないのだ。
つまり事態の規模は問題にならない。
なぜあなたはその程度の傷しか負わないのかと、責め立てることはできない。なぜあなたはそんなことで大きな傷を負うのかと、責め立てることはできない。
人間の経験、とくに「生きざま」と呼ばれるものは、ときに他者の救いとなり、道しるべになりうる。人類史上で語り継がれるような、貴重な財産にさえなりうる。
ただし、耳にした経験が自分のものではないことを、私たちは知っている。
悲しみのなかでこそ見出しうるもの
倒れ込んでしまったとき、再び立ち上がり歩きだすために、まず取りかかるべきこと。それは、現状のすべてをいちど受け入れたうえで、手元にある自分だけの ”物差し” で、傷跡や心の様子をくまなく見つめることではないだろうか。
物差しの尺度と精度を改めて確認しながら、倒れ込んでいる ”いまの自分” を把握しようと試みる。そのうえで「この先の人生にどんな希望が残されているか」ではなく、「いまここで、自分に、なにができるか、なにをすべきか」を見出す。もういちど立ち上がり、歩きだす糧とする。
さらにその様子を語ることができるようになれば、傷を癒すこともできるかもしれない。自分と誰か、またはどこか知らないところで対話がはじまれば、その痛みの経験はたしかにこの世に残り、かけがえのないものになりうる。
私たちは態度によって、この悲しみに覆われた時期に意味をもたせるかを、選ぶことができる。
痛みに耐え抜き、新たな価値を見出していくこの一連の経験は、これまでの自分の世界を広げるものにほかならない。少なくとも内の世界は広がり、充実していくように思える。
悲しみのときにこそ、人は大きく成長できるのかもしれない。