ブレそうなとき、思い出す話。
「フォーカル・ジストニア」という病名を言い渡されたのは、16ヶ所目に訪れた病院でした。
当時私は関西に住んでいて、埼玉にあるその病院で診断を受けた時には、もう体力的にも精神的にも疲弊しきっていて朦朧とした状態。
病院によっては、その場で撮った顔写真を診察カードに載せるところもあり、そこに写る、信じられないほどにやつれた悲壮感いっぱいの自分の顔を、今でもはっきりと覚えています。
「簡単な動きができない」発症から診断まで
私は演奏家をしていました。今思えば前兆と言えそうな違和感はあったものの、ある日突然、左手首が勝手に反り返るようになったのです。意思とは無関係。思うように動かない。けれど痛みも無い。経験したことのない不思議な感覚でした。
自分にとっては目をつぶってでも奏でられるはずの、簡単な動きができない。例えるなら、11桁の電話番号を順番に押そうと何度トライしても、半分近くミスタッチしてしまうような状態。
疲れからくる一過性の症状だとは思えない嫌な感覚。
案の定、その症状は日を追うごとに悪化していきました。繊細な指先の動作が必要とされる身としては致命的と言える症状。ちょうど大事なレコーディングを直前に控えた、個人練習の最中の出来事。その後だって演奏のスケジュールは山ほど控えている。まさに悪夢でした。
フォーカル・ジストニアは、「脳からの信号がうまく伝わらず、自分の意思とは関係なく、体の一部が勝手に動いてしまう病気」です。今でこそ、検索すれば「病気」としてすぐに出てくる症状ですが、当時はまだ日本の医師会の間でも浸透していなかったようで、言葉は悪いですが、結果としてあらゆる病院をたらい回しにされることになったのです。
当時は、誰もが知っているだろう大手レコード会社に専属していたおかげで、常にマネージャーさんが一緒に病院を探し、立ち会ってくれていました。今思えば付き添いながらも気が気でなかったことでしょう。私はこれまで経験したことのない焦りと不安で、恥ずかしながら自分の気持ちの処理だけで精一杯でした。必死さのあまり、失礼な態度も多かっただろうと思います。
この聞いたこともない症状の原因を探す”病院ハシゴ旅”の終盤、私はもはや、連れられるがままに関東にも出向き、診断を受けていました。発症後1年半ほど経った頃でしょうか。16ヶ所目の病院で、ようやく「フォーカル・ジストニア」の診断結果を言い渡されました。
すがりつく気持ち
医師の説明では「極度の集中を要する、繊細な反復動作を長時間行う際、起こり得る職業病」。これは今でも、一般的な認識としては同じようです。後から聞いたんですが、日本でフォーカル・ジストニアを専門的に研究している数少ない医師、とのことで紹介して頂いたようでした。
まだ実例は少ないが、実際に同じような症状にかかっている人がいること。症状の傾向も酷似していること。初めて確証が得られる話を聞けたのです。長旅を終え、ようやく病名が分かった… という安堵感も束の間、非情な言葉を聞かされます。
「今のところ、特効薬のようなものはない。一生付き合っていく可能性が高い」
目の前が本当に真っ白になりました。
多くの楽器演奏者が夢見るような憧れの職業に就き、やっと駈け出していた。症状の原因が分かるまでも、異常な感覚を背負いながら、多くのライブ、レコーディング、夜通し行われるリハーサルを必死にこなしてきた。
脳信号を無理やり制御する奏法を試していたせいか、リハーサル中に ふっ、と意識を失ってスタジオから救急車で運ばれることもあった。多くの関係者に気遣われ、それがまた辛くても、それでも、少しでも、この状態が改善されることを光に、自分を奮い立たせ続けてきたんです。
その診断後まもなく、私はうつ病にかかりました。
壊れてしまった、身体の歯車
私はもともと、本当に”調子ノリ”な人間でした。人前に出ることが大好き。人前でしゃべることも大好き。目立つことが大好きな人間。
そんな私にも、懇意にしてくださった演奏の師匠がいました。一般的に単純表現されているような”スキル”はもちろんのこと、めちゃくちゃ表現力が豊かで、日本だけでなく海外でも活躍している方。しかも若くてオトコマエ。そして何より、知見がとことん深かった。世の中のあらゆることに詳しく、マニアレベルなのです。そして独自の価値観を持っていた。
当時まだまだ学生ノリだった私にとっては当然、何一つ太刀打ちできるものなんてなく(実際に学生でしたが)演奏のことよりまず、人間性や物事への臨み方を怒鳴りつけられていました。
もう当時は怖くて怖くてしょうがなかった。
「俺なんかビビッててこの先どないすんねんボケェ」なんてもっともなことも言われました。とにかく、何を意見しても、どんなプレイをしてみせても、結局は自分の甘さばかりを痛感させられる。発する一言一言も、常に彼が正しい。自分でもそれが痛いほど分かる。そして正しいことを言うだけでなく、言ったことは全て実行するバイタリティーがあり、実現し続ける方でした。「コノヒト、ほんまは宇宙人ちゃうか」なんて思ったり。
でも、少しだけ特別に、気に入ってもらえていたんです。恐れながらも尊敬し、目標で在り続けました。
彼に近づくために、早朝・夜中問わず、一日じゅう練習に明け暮れました。絶対近づいてやる。その盲目なほどの想いと実践は、残念ながら、身体の歯車のひとつを壊してしまう結果となってしまいました。
あの時、気づけなかったこと
医師から診断結果を聞いた時、ようやく、悟ったんです。
”彼のようになりたかったけれど、そもそも彼にはなれなかった”。
憧れを持つことがモチベーションになり、目標として、彼に向かって、自分をずっと向上させてきた。演奏スキルも、落としきれない程にこびりついていた自分本位な考えも、納得の行く形でまっさらにしてもらえた。当時、同世代の友人たちと比べても先駆けて素晴らしい経験ができたと思うし、目標となる存在は常にあったほうがいいと、今でも思っています。
でも当時は気づけませんでした。自分は”彼になろうとしていた”。
そんな不可能な目標が最終的に、身体の異常となって表面化してしまった。自分自身を見つめる必要性に気づいたのがあまりにも遅かった。
彼の素晴らしい要素を自分のフィルターを通して吸収し、自分で考えて前へ進むこと。【自分らしく、彼のように生きる】という選択肢があるということ。そのことに気づけなかったんです。
その後もあらゆる対策をして演奏業は続けました。脳から発生する動作の異常、目眩、プライドとの闘い、それはもう、苦悩の日々が続きます。それでもなんとか乗り越えつつも… また紆余曲折があり… 今では、違う形で”音”に携わることになっているわけですが… そのお話はまた、機会があった時に。ヒトは意外と、前に進めるものですね。
自分だけのフィールドを創り、広げるということ
人間はきっと、ある物事に対して「自分で考えてみること」が必要な生き物なんだと思います。
ちょっと大げさな表現ですが、むかーしむかしの、古代文化黎明期からの歴史を鑑みても、「無関心」を貫き通して生きることは難しかったはずです。現代は「無関心」でも生きていけます。私のように「気づけなかった」どころでなく、「気づく機会がない」ことも多くなっているかもしれません。
「自分の価値観でしっかり考えてみること」が、結果的に「自分を見つめること」にもなり、「自分らしさやオリジナリティー」は自然と表面に現れてくるのではないでしょうか。
きっとそれを何らかの形で発信していくことが、「自分なりの強みや生きがいを見つける」ことに繋がるんじゃないか、生きていくなかで「自分だけのフィールドを創り、広げていくことに繋がるんじゃないか、と思えます。
あの時気づけなかったことも、夢中で演奏していた時間も、消化して、今は自分の価値観の一部になっている。今も別の形で力になっているし、自分の一部になっている。経験したこと全部が、これからも活かされていくはずです。ひとつの点も、伸ばせば線になって、他の線とどこかで繋がる。網状に広がったフィールドは、自分で創りあげていくことができるんですよね。
だから、道を断たれてしまうような出来事があっても、それがどんなに不本意なことであっても、その経験に意味を見出して、新しい目標を見つけて、前に進んでいくことはできる。
私はそう確信して生きています。