「制限」を味方につけよう。
毎日が仕事だけの繰り返し。家族とゆっくり時間を過ごしたい。他にやりたいこともあるのに帰ったらもうクタクタ・・・とにかく時間がない。生活に必要なお金と体力の捻出にぜんぶ時間を奪われている。
もー生活のほとんどが制限されてて、何をするにもやる気がでねぇっ
なんとかこの状態、解消したいですよね。毎日のほとんどの時間が「制限」されている感覚に支配されて、仕事にも、やりたいと思っていたはずのことにさえ、やる気が出なくなってしまう。こうなるとすべてが悪循環してしまう。マズいです。なんとかしましょう。
現実的な解決策としては、例えば・・・
こうやってタスク管理や習慣を見直すことで、時間を捻出することもできます。それでも。
いーやまだ足りない。もっと時間がほしいっ
と感じることが多いのも事実。ゼイタク?いや、正直なキモチはみんなそうでしょう。でも、「制限」というもの自体を、少し違った角度から眺める価値観を持っていると、今のモヤモヤとした「がんじがらめ感」からは解放されるかもしれません。
タスク管理とは少しオモムキの違った、やる気を生み出すモチベーション管理。後半では具体的なアクション方法にも触れています。意外と効果的なのでぜひ目を通してみてください。
「制限」はクリエイティビティーの源泉にもなる
そもそも「制限」があるからこそ、クリエイティビティー(創造性)が生まれることは多々あります。それは、実は誰もが実感できているはずのこと。
例えば私の場合、クライアントから「特にイメージもないんで、ぜんぶおまかせしまーす」なんていう依頼が来た場合、「届く視聴者はどんな人だろうか?」のイメージをこちらで固め、あえて世界観を決めてしまい、それを柱に組み立てていきます。
違うフィールドでも同じシチュエーションは多々あるでしょう。信頼されているがゆえに、「この商品で、売上げ伸ばしてみて」なんて丸投げされたとしたら、何を考えはじめるでしょう。
例えば他社の類似商品とは違う部分を見つけて、そこを一番に絞ってPRしたり、どんなシチュエーションで一番に使ってもらいたいかを決め、そこからターゲットの年齢層やアピールの方針を固めたり・・・
普段は無意識なことも多いですが、こんなふうに「制限」を加えるからこそ生まれるものはたくさんあります。だったら、こんなことも言えるんじゃないでしょうか。
「制限されている」と感じる日常だからこそ生まれるものがある。
「それは誰の欲求なのか」、俯瞰して眺める
大切な人との時間も忙しいなかだからこそ、貴重な時間として楽しめることもある。「誰かのための時間」を意識するとき、主観的なライン引きに基づいていることが多々あります。
例えばもし、たったいま自分が子どもだったら、親の一生懸命に楽しむ姿を見て影響を受けたいと思えるのです。そういった価値感が、映像と一緒に”残る”ことを知っているからです。平日は会社員をしながら休日は図書館まで坂道を登っていく親の後ろ姿を、見えなくなるまで団地の窓から眺めていた時の映像は、今でも鮮明に残っています。
環境や状況に左右されることではあるけれど、それは自分の欲求なのか、他人の欲求なのか、俯瞰してみることは無駄にはならないはずです。
「制限」は「成長の源泉」になり得る
例えばひとつ本を読んで、ちょっと物事に対する考えが変わる。音楽を聴いて、映画を観て、誰かの講演を聞いて、尊敬する人と話をして・・・誰もが経験することです。
それって視点を変えると、「価値観の幅が広がった」のと同時に「今後の自分の振る舞いに影響した」わけですよね。それはつまり、自分に「制限」が加えられた、とも言えます。
そう考えると「制限」という言葉の印象も変わってきませんか?
【制限=成長の源泉】と捉えることもできそうです。
価値観の「幅」が広がったなら、次は実際に自分でアクションを起こして「奥行き」をつけていきたいところです。せっかくのチャンス。そんなとき、どんなことをしていますか?具体的にはどんなアクションを起こせば効果的なんでしょう?
表現しきれないはずの感情を言語化するという「制限」
学んだこと、モヤモヤしている感情や不満、自分はどう在りたいのか?どうしていくべきなのか?などの思考は、頭の中だけで考えていても整理しきれないことが多いものです。
そういう時は、「言語化するという制限」が効果的です。
そもそも、無意識のうちに持っている感情を、言葉で完全に表現することは難しい。それを逆に活用してやる、という発想です。とりとめのない、やり場のない感情さえ、言語化することで「理解できるもの」に変わることがあります。
感情と比べると、言葉は制限があるもの。言葉として吐き出すことによって、感情も、これから進んでいきたい方向性も、整理されることがとても多い。
例えば私の場合、今の自分に至るまでの経緯や、モヤっとしたままにしていた感情を言語化する必要があると思えたときには、定期的に吐き出し、言葉にまとめています。世間に公開するかどうかは別の意味あいを持ってくるため、どちらでも構いません。これは「誰かに知ってほしい」という承認欲求というより、自分と向き合い振り返るために必要な時間だと思っています。
いま、自分は何を求めているのか?そのためには何が足りないのか?何をする必要があるのか?次にとるべきアクションや、正直な気持ちがハッキリとしてくる感覚が生まれます。
「制限」は自分の価値観を創る
定期的に自分と向き合う時間というのは、誰もが必要とすることなんじゃないかと思っています。上に挙げた「感情を言語化するという制限」はひとつの手段ですが、誰でも、スキルに関係なく取り組めるはず。理由の分からないイライラ感や不満感の解消にも役立つことが多いのでおすすめです。
いつの間にか自分のなかに積もりに積もっている、そんな呪縛霊みたいなものたちを、なんつーかこう・・・定期的に自分なりの価値観へ成仏させる感じでしょうか。
うーん思いのほかスピリチュアルな表現になりました。
私たちの頭のなかは、日々関わる、いろんな人の感情や情報が入り乱れています。世間的に常識とされていること、不透明な社会状況、テレビから流れる大げさな表現、ネットに溢れる誹謗中傷、同僚から聞かされる陰口、・・・・・・ではここでクエスチョンです。
今感じている自分の喜怒哀楽は、本当に自分の感情でしょうか?
誰かの感情とごっちゃになってませんか?
芸能人の振る舞いひとつに怒っているその感情は、あなたのものですか?
今常識だと思っているすべてが、5年後も常識だと”考えて”いますか?
私たちの頭のなかには川が流れています。そこにはいろんな場所から、いろんな情報が流れてきます。養分たっぷりなものもあれば、ゴミの混じった汚いものもあります。
キレイに透き通っていた水も、流れ出る場所がないと、濁り、腐っていきます。さらにはどんどん流れこむ濁流を溜め続けていたら・・・
濁りきった思考のなかで生まれた魚は美味しくないし、いつかはダムが決壊するかもしれない。インプット過多な時代、とにかく吐き出すことから始めるのは、とても自然なことに思えます。周りにあたり散らす、ってことじゃありません。自分の感情は自分なりに言語化してやる、ということです。
自分だけのための殴り書きから始めるのもアリですし、公開する体裁で、ある程度伝わりやすくまとめようとすることが思考整理に役立つこともあります。
そうしていくと不思議なことに、不要なノイズ情報にも振り回されにくくなっていくように感じます。だから、いつでもキレイな水流に戻そうとすることができるし・・・
必要な養分を流してやれば、美味しくてぷりっぷりの魚もまた、生まれ出します。
その魚が、自分だけの価値観だったり、思わぬアイデアだったりするんですよね。
ある物事に対して、自分なりの価値観をもつことは強みにもなり得ます。で、残念ながら、忙しいなか頭だけで考えていても、うまくまとまらないことが多いです。
今は、まーこんなもんでしょ
というコトバも・・・自分に言い聞かせてるだけのカラ元気なのか?自分の価値観から出てきたものなのか?で、その後に大きな違いが出てくるかもしれません。一人の人間としての存在感、それとなにより、健康にも。
「制限」はいつでも、必要なもの
いろんな場面で、「制限」は必要になってくるもの。そんな価値観を持っていると、がんじがらめ感でいっぱいになりそうなときも、前向きな気持ちに切り替えやすくなるはずです。
特に「感情を言語化するという制限」は、「自分の価値観」を創るきっかけになるのでおすすめです。いろんなことがクッキリハッキリしてくる感覚は、時にしっかりとしたモチベーションを与えてくれます。
でもこの話も、「制限」について言語化してまとめた私の価値観。そうそう、またひとつ成仏させてやった感情です。言葉で制限したからこそできたこと。あなたは、どう思いますか?
少しでも何かのきっかけになれば。刺激になれば。この記事自体も、成仏してくれそうです。
・・・うーん。思いのほかスピリチュアル。